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混声合唱の「威風堂々」のCDありませんか? -エルガーのマーチ「威風- その他(音楽・ダンス・舞台芸能) | 教えて!goo


初代 準男爵 サー・エドワード・ウィリアム・エルガー (Sir Edward William Elgar, 1st Baronet, OM , GCVO 、 1857年 6月2日 - 1934年 2月23日 )は、 イングランド の 作曲家 、 指揮者 。もとは音楽教師であり ヴァイオリニスト でもあった。. エルガーが遺した楽曲の多くは母国 イギリス のみならず、世界中の演奏会で取り上げられている。中でも最もよく知られるのは『 エニグマ変奏曲 』や 行進曲 『 威風堂々 』、 ヴァイオリン協奏曲 、 チェロ協奏曲 、2曲の交響曲などである。また、『 ゲロンティアスの夢 』をはじめとする合唱作品、室内楽曲や歌曲も作曲した。. エルガーは 1857年 6月2日 、 ウスター 近郊の ロウアー・ブロードヒース ( 英語版 ) で生まれた。父は ドーヴァー 育ちで ロンドン の音楽出版社での見習い経験を持つ、ウィリアム・ヘンリー・エルガー(William Henry Elgar、 1821年 - 1906年 )であった。ウィリアムは 1841年 にウスターへと移り住み、 ピアノ調律師 として働きながら楽器商として楽譜や楽器を販売する店を営んでいた [1] 。 1848年 、彼は農家の娘であったアン・グリーニング(Ann Greening、1822年-1902年)と結婚する [2] 。エドワードは7人きょうだいの4番目であった [注 1] 。.

母のアンはエドワード誕生の直前に ローマ・カトリック へと改宗しており、エドワードもカトリック教徒として洗礼を受けて育てられたが、これは父の認めるところではなかった [注 2] 。ウィリアムはプロ並みの腕前を持つ ヴァイオリニスト であり、 1846年 から 1885年 にかけてはウスターのセントジョージ・カトリック教会( St George's Church )で オルガニスト を務めていた。彼が旗振り役となって ケルビーニ や フンメル の ミサ曲 が初めて スリー・クワイアズ・フェスティバル ( 英語版 ) で演奏されることになり、彼自身もヴァイオリンの演奏で参加した [5] 。エルガー家の子どもたちは皆、音楽を教え込まれており、エドワードは8歳までにはピアノとヴァイオリンのレッスンを受けていた。彼は時おり、 ウスターシャー の名だたる家々を回ってピアノを調律していた父に連れられて出かけていき、地元の名士らの前で技量を披露する機会を与えられた [1] 。.

エルガーの母は芸術に関心を持つ人物で、息子が音楽の道に進むのを後押しした [2] 。エルガーはこの母から文学面での審美眼と田舎町に対する強い愛情を受け継いだ [6] 。エルガーの友人で伝記作家の ウィリアム・ヘンリー・リード が記すところでは、エルガーの幼少期の環境が与えた影響は「彼の作品全てに染み渡っており、彼の生涯にわずかながらもなお真正かつ頑強なイングランド的特性を授けたのである [7] [注 3] 。」エルガーは幼いころから作曲を始めていた。10歳頃にはきょうだいで演じる劇を作曲しており、その40年後に彼は若干の修正のみを行ったこの曲に オーケストレーション を施し、組曲『 子供の魔法の杖 』とした [2] 。.

エルガーは15歳になるまでウスター近郊のリトルトン・ハウス校 [注 4] で一般教育を受けた。一方で、彼が地元の教師たちから受けていたピアノとヴァイオリンのレッスンを超える公式な音楽の訓練は、 1877年 から 1878年 にかけてロンドンに滞在した際に アドルフ・ポリッツァー に師事して受けた発展的なヴァイオリンの特訓のみだった。エルガー自身の言によれば「私の最初の音楽は 大聖堂 ( 英語版 ) で学んだもの(中略)それと、8歳、9歳か10歳頃に音楽図書館から借りた本で学んだものだった [11] 。」彼はオルガン演奏の教則本を使って勉強し、 音楽理論 に関しては見つけられた本を片端から読み漁った [5] 。中でも最も役に立ったのは ヒューバート・パリー が『 ニューグローヴ世界音楽大事典 』に執筆した論説だったと、彼は後になって述べている [12] 。エルガーはさらに音楽を学ぶために ライプツィヒ音楽院 への留学を目指し、 ドイツ語 を勉強し始めた。しかし、彼の父には彼を国外へやる経済力がなかった。 ミュージカル・タイムズ 紙は後になって、エルガーがライプツィヒ留学を果たせなかったことは彼の音楽的発展にとって幸運なことだったとの考察を掲載した。「こうして芽を出し始めた作曲家は様々な楽派のドグマを回避できたのである [5] 。」エルガーは 1872年 に学校を卒業してすぐにライプツィヒに赴かず、地元の事務弁護士の元で事務員として働くことになったことに失望していた。性分に合わない事務員でのキャリアを見出せず、音楽ばかりでなく文学にも埋め合わせを求めた彼は貪欲に書籍を読み耽った [注 5] 。この時期に彼はヴァイオリニスト、オルガニストとして最初の公開演奏を行っている [14] 。.

数ヵ月後、エルガーは音楽の道に身を投じるべく事務弁護士の元を後にし、ピアノやヴァイオリンのレッスンを行うと同時に折に触れて父の店で働くようになった [1] 。彼はウスターの グリークラブ で父と共に活発に活動する傍ら、歌手を伴ってヴァイオリン演奏、楽曲の作曲や編曲、そして初めての指揮も行った。ポリッツァーはエルガーにヴァイオリニストとして国を代表する ソリスト となり得る才能があると信じていたが [15] 、エルガー自身はロンドンの演奏会で一流 ヴィルトゥオーゾ たちの演奏を耳にして、自分の演奏には十分な音色が欠けていると感じて、ソリストになるという野心を捨ててしまう [1] 。22歳になった彼はウスターから5km離れた ポウィック ( 英語版 ) のウスター・アンド・カントリー精神科養護施設( 英語版 )付属楽団の指揮者の職に就いた [5] 。楽団は ピッコロ 、 フルート 、 クラリネット 、 ホルン 2、 ユーフォニウム 、3人から4人の第1及び第2ヴァイオリン、場合によって ヴィオラ 、 チェロ 、 コントラバス やピアノという構成だった [16] 。エルガーは奏者に指導を行い、この特殊な編成の楽団のために カドリーユ や ポルカ などの音楽を作曲、編曲した。ミュージカル・タイムズ紙はこう書いている。「この実践的な体験が若い音楽家にとって最大の価値を有していたことがわかる。(中略)彼はこれらの様々な楽器の性能について実用的知識を得た。(中略)彼はそうして音の色彩、並びにこれらやその他の楽器の詳細をつぶさに知ることになったのである [5] 。」彼は 1879年 以降この職に5年間留まり、週に1回ポウィックへと足を運んでいた [1] 。彼が初期に就いていた他の職には ウスターの盲学校 ( 英語版 ) のヴァイオリンの教授があった [5] 。.

元来孤独を好み内省的な性格であったエルガーであるが、ウスターの音楽サークルでは目立つ存在だった [2] 。彼はウスターや バーミンガム の音楽祭でヴァイオリンパートに加わっており、そうした中で ドヴォルザーク 自身の指揮で 交響曲第6番 と『 スターバト・マーテル 』を演奏できたのは大きな経験となった [17] 。また彼は、オーボエ奏者で自ら組織した吹奏楽団の指揮をしていた弟のフランクとともに管楽五重奏団で ファゴット を吹いていた [5] 。エルガーは モーツァルト 、 ベートーヴェン 、 ハイドン やその他の作曲家の多くの作品を五重奏用に編曲し、自身の編曲と作曲の腕前を磨いていった [5] 。.

初めてとなる海外旅行で、エルガーは 1880年 に パリ 、 1882年 にライプツィヒを訪れた。彼は サン=サーンス が マドレーヌ寺院 のオルガンを演奏するのを耳にし、第1級のオーケストラの演奏会に出席した。 1882年 に彼はこう書いている。「 シューマン (私の理想!)、 ブラームス 、 ルビンシテイン 、 ワーグナー にどっぷり浸かったので、文句を言う理由などありません [11] 。」ライプツィヒでは音楽院で学んでいた友人のヘレン・ウィーヴァー(Helen Weaver)を訪ねた。2人は 1883年 の夏に婚約を果たしたが、この縁談は理由はわからないものの翌年破談となってしまった [1] 。エルガーは大いに悲嘆にくれる。彼が後年 ロマン的 な音楽へ謎めいた傾倒を見せるのは、ヘレンや彼女に対する想いがほのめかされていることが一因かもしれない [注 6] 。生涯のあらゆる場面で、エルガーはしばしば親しい女性の友人から霊感を得ている。ヘレン・ウィーヴァーに続くのは メアリー・ライゴン 、ドーラ・ペニー、ジュリア・ウォーシントン、アリス・ステュアート・ウォートリー、そして最後は彼の晩年に活気付けたヴェラ・ホックマンである [18] 。.

ストックリーの冬期コンサートシーズンのオーケストラに定期団員として在籍中、エルガーはフル・オーケストラ用に作曲した最初期の楽曲群のひとつ『 Serenade mauresque 』の演奏に加わった。ストックリーは彼に自作の指揮をするよう呼びかけたが、彼が次のように述懐する事態に終わった。「彼は拒絶するのみならず、オーケストラで演奏することを強く希望した。その結果、聴衆の心からの温かい拍手に応えるために彼は フィドル を手に登場せねばならなくなった [19] 。」エルガーは自作の出版を取り付けるためにしばしばロンドンへと赴いたが、この時期には落胆することが頻繁にあり金欠に喘いでいた。 1884年 の友人宛の書簡にはこう書いている。「私の見通しはほとんどこれまでどおり望み薄です(中略)私は元気が乏しいわけではないと思います。そうしたわけで、私は時々これは能力の乏しさなのだろうと結論付けるのです。(中略)私にはお金がない?1セントもありませんよ [20] 。」彼は長年、ウスターのセントジョージ教会のオルガニストだった父ウィリアムの助手を務め、 1885年 からの4年間は父の後任として働いた。この期間に彼はローマ・カトリックの伝統に則って初めてとなる礼拝用作品群を書いている。4声の合唱のための『3つのモテット』 Op.

エルガーが29歳のとき、彼は新しい弟子を取った。後のサー・ヘンリー・ロバーツ 陸軍 少佐 の娘で詩歌や散文の出版経験もある キャロライン・アリス・ロバーツ である。エルガーより8歳年上のアリスは、3年後に彼の妻となる。エルガーの伝記作家である マイケル・ケネディ はこう記した。「アリスの一家は、彼女が店先で働くローマ・カトリックの名の知れない音楽家と結婚しようとしていることにぞっとした。彼女は勘当されてしまった [1] 。」2人は 1889年 5月8日 に ブロンプトン祈祷所 ( 英語版 ) で結婚した [17] 。このときからこの世を去るまでの間、彼女はエルガーの仕事のマネージャー、社会的な秘書となり、彼の気が動揺すればなだめ、音楽には的確な批評を与えた [21] [22] 。彼女はエルガーが有力団体の注目を浴びるよう最善を尽くしたものの、これはあまり成功しなかった [23] 。やがて栄誉を受けるようになるエルガーは、それが彼女と彼女の社会的地位にとってより大きな問題であること、そして彼女がエルガーのキャリアを後押しするために何を諦めてきたのかに気付かされることになる [注 7] 。彼女の日記にはこう書かれている。「天才の面倒を見るというのは、いかなる女性にとっても生涯の仕事として十分なものです [25] 。」婚約の贈り物として、エルガーはヴァイオリンとピアノのための小品『 愛の挨拶 』を彼女に捧げた [注 8] 。アリスの勧めに従って、彼はよりイギリスの音楽の中心に近いロンドンへと移り住み、作曲に専念するようになった。一人娘であるキャリス・アイリーンは、 1890年 8月14日 に ウェスト・ケンジントン ( 英語版 ) の彼らの家で誕生している。エルガーが『愛の挨拶』に記した献辞からわかるように、キャリス(Calice)という彼女の名前は母の Ca rolineとA lice を繋げて名づけられたものである。.

エルガーは見知らぬ音楽を聴く機会を存分に活用した。ミニチュア・スコアや録音が登場する以前の当時、若い作曲家が新しい音楽を知るのは容易ではなかった [26] 。彼は 水晶宮 の演奏会には必ず足を運んだ。彼とアリスは毎日のように出かけていき、幅広い作曲家の音楽を聴いたのである。そうした中には オーケストレーション の達人でありエルガーが多くを学んだ、 ベルリオーズ やワーグナーも含まれていた [2] 。しかし、エルガー自身の楽曲はロンドンの音楽界でほとんど注目されることはなかった。 アウグスト・マンス が水晶宮で『愛の挨拶』の管弦楽版と組曲ニ長調を演奏すると、2つの出版社からエルガーのヴァイオリン作品、オルガン曲、 パートソング からいくつかの楽曲が出されることになった [27] 。淡い期待を抱かせるような出来事もあったようだが、予期せぬ形でそれは泡と消えた [27] 。例えば、彼の楽曲から数曲を通してみたいという ロイヤル・オペラ・ハウス からの申し出があったが、 アーサー・サリヴァン が予告なしに現れて自作曲のリハーサルを始めると撤回されてしまった。サリヴァンは後年、エルガーからこの時のことを訊ねられて冷や汗をかいている [注 9] 。この時期にロンドンにいたエルガーにとって唯一の重要な委嘱は、彼の故郷からのものだった。ウスター音楽祭委員会が1890年のスリー・クワイアズ・フェスティバルのために、彼を招待して短い管弦楽曲を依頼したのである [29] 。ダイアナ・マクヴェイが『ニューグローヴ世界音楽大事典』に記したところによると、結果として生まれた曲は「彼の最初の主要作品、自信に溢れ自由闊達な『 フロワサール 』である。」1890年9月のウスターでは、エルガー自身が初演の指揮を行った [2] 。他の作品に恵まれなかったため、エルガーは 1891年 にロンドンを離れざるを得なくなり、妻と子を連れてウスターシャーへと戻ると地元の楽団の指揮や音楽教師をして生活費を稼いだ。彼らはアリスのふるさとであった グレート・マルヴァーン ( 英語版 ) に居を構えた [2] 。.

正式な表題は「創作主題による変奏曲」であるが、曲の冒頭6 小節 に現れる「エニグマ(謎)」という言葉がタイトルとして広く知られるようになった。謎とは「創作主題」による14の変奏が変奏される一方で、全体に通底する別の主題があるということである。主題はエルガー自身によれば「全曲を貫き覆う」が一度も音にされることはなく、また彼はこれを特定しなかった [注 11] 。後の世のコメンテーターらの考えるところでは、エルガーは今日ではイングランドらしい特徴を備えた作曲家だとみなされているが、彼の管弦楽作品、中でも特にこの曲は当時でいえば リヒャルト・シュトラウス の楽曲に典型的なヨーロッパの中心の伝統と通ずるところを多く備えている [1] [2] 。『エニグマ変奏曲』はドイツとイタリアでも好評を博し [36] 、現在でも世界中で演奏会の定番であり続けている [注 12] 。. エルガーはおそらく1901年から 1930年 にかけて作曲された5曲の『 威風堂々 』の第1曲によって最も知られるだろう [45] 。毎年全世界に向けて放映されて数えきれない視聴者が目にする プロムス最終夜 では [46] 、伝統的にこの曲が演奏されている。第1番のゆったりした中間部分(専門的には トリオ と呼ばれる)の主題をひらめいた時、エルガーは友人のドーラ・ペニーにこう述べている。「皆を打つ - 打ちのめす旋律を思いついたんだ [47] 。」1901年にロンドンのプロムナード・コンサートにおいて第1番の行進曲が初演された際のことを、指揮を行った ヘンリー・ウッド は次のように記した。「(聴衆は)立ち上がり叫び声をあげた(中略)プロムナード・コンサートの歴史において管弦楽曲が2度のアンコールという栄誉を受けた、ただ1度の出来事である [48] 。」 エドワード7世 の 戴冠式 を飾るため、1901年6月にロイヤル・オペラ・ハウスで行われたガラ・コンサートへ向けてエルガーは アーサー・クリストファー・ベンソン ( 英語版 ) の『 戴冠式頌歌 』への楽曲提供を委嘱された。王の許可が確認されるとエルガーは楽曲に取り掛かった。 コントラルト であった クララ・バット からの、『威風堂々第1番』のトリオにちょうど合わせた歌詞を付けられるという言葉に納得したエルガーは、ベンソンにそうするよう要請した。エルガーは頌歌にその新しい声楽版を組み込んだ。この声楽作品『 希望と栄光の国 』に可能性を感じ取った楽譜出版社は、エルガーとベンソンに対して独立した楽曲として出版するためにさらに改訂を加えるように依頼した [49] 。この曲は絶大な人気を獲得し、イギリスにおいては今や第2の国歌と称されている [1] 。アメリカではトリオが『威風堂々』もしくは『卒業行進曲』として知られており、 1905年 以降ほぼすべての高校並びに大学の卒業式に採用されている [50] [51] 。.

その後、オラトリオ『 使徒たち 』( 1903年 )、オラトリオ『 神の国 』( 1906年 )を発表。50代にして作曲した 交響曲第1番 ( 1908年 )とヴァイオリン協奏曲( 1910年 )は、瞬く間に成功を収めることとなった。ただし、 交響曲第2番 ( 1911年 )、チェロ協奏曲( 1919年 )の聴衆からの当初の反応は芳しくなく、イギリスのオーケストラの演奏会レパートリーとして定位置を占めるに至るには何年もの歳月を費やした。それでも、これらの作品や交響的習作『 フォルスタッフ 』( 1913年 )といった傑作を次々と作曲したエルガーは、名実共に英国楽壇の重鎮となる。. ヴァイオリン協奏曲はエルガーが大衆的な成功を収めた最後の作品となる。翌年に 交響曲第2番 をロンドンで披露したエルガーであったが、曲の評判に落胆することとなる。燃えるようなオーケストラの輝きに終わる第1交響曲とは異なり、第2番は静かに、瞑想的に幕切れを迎える。初演に立ち会ったリードが後年記したところによると、エルガーは拍手を受けるために何度か舞台へと呼び出されたが、「ヴァイオリン協奏曲や第1交響曲の終演後に見られたような、聴衆、イングランド人の聴衆さえもがすっかり沸き立ち興奮を顕わにするという、紛れもない様子は見られなかった [70] 。」エルガーはリードに「彼らはいったいどうしたというだ、ビリー。皆、腹一杯になったブタのように座っているではないか。」と尋ねた [70] 。この作品は初演から3年間で27回演奏され、一般的な基準で見れば成功と言えるだろうが、第1交響曲のような世界的な「大騒ぎ」には至らなかったのである [71] 。.

第一次世界大戦 が勃発すると、大虐殺の予感に恐れ慄いていたエルガーの心の内には愛国的な感情が湧きあがっていた [75] 。彼は『兵士へ寄せる歌 A Song for Soldiers 』を作曲したが、これは後になってしまいこんでしまう。彼は地元警察の特別巡査として署名し、その後陸軍のハンプステッド・ボランティア予備隊に加わっている [76] 。こうした中で生まれた愛国的作品群の『 カリヨン 』は語り手による朗読と管弦楽による ベルギー を讃えた作品 [77] 、『 ポローニア 』は ポーランド を讃える管弦楽曲である [78] 。『希望と栄光の国』は既に人気であったが、さらにその勢いは高まりを見せていた。エルガーは愛国的感情を少くした歌詞を曲に合わせて歌えるよう新たに付けたいと考えていたが、この案は日の目を見なかった [2] 。.

戦時期にエルガーが作曲したその他の作品は児童演劇への 付随音楽 『 スターライト・エクスプレス 』(1915年)、 バレエ音楽 『 真紅の扇 』(1917年)、そして ローレンス・ビニョン の詩「 フォー・ザ・フォーレン 」による『イングランドの精神』(1915年-1917年)であり、これは彼のそれまでのロマン的な愛国的性格とは質を異にする3つの合唱音楽である [2] 。戦中最後の大規模作品は ラドヤード・キップリング の韻文へ作曲した『 The Fringes of the Fleet 』である。曲は国中で大きな人気を博したが、やがてキップリングは理由を明らかにしないまま劇場での同曲の演奏に異を唱えるようになった [79] 。エルガーは自ら指揮棒を執り、グラモフォン社( Gramophone )にこの作品の録音を遺している [80] 。.

大戦が終結へ向かう頃、エルガーは健康を損ねていた。彼の妻は郊外へ移り住むことが夫にとって最善の策であると考え、 画家 の レックス・ヴィキャット・コール ( 英語版 ) から ウェスト・サセックス の フィトルワース ( 英語版 ) 近くにある屋敷、「ブリンクウェルズ Brinkwells」を借り受けた。ここに 1918年 から 1919年 まで滞在して健康を回復させたエルガーは、4つの大規模作品を書き上げる。その最初の3作品は室内楽曲の ヴァイオリンソナタ ホ短調 、 ピアノ五重奏曲 イ短調 、 弦楽四重奏曲 ホ短調 である。作品の制作途上で、アリスは日記にこう書き記している。「E. 素敵な新しい音楽を書いている [81] 。」これら3作品の評判は上々であった。タイムズ紙は次のような論評を掲載した。「エルガーのソナタは他の楽曲形式で我々が耳にしたことのあるものを多分に含んでいるが、我々は彼に変わって欲しいとも他の誰かになって欲しいとも全く考えていないのだから、それはあるべき姿なのである [82] 。」四重奏曲と五重奏曲は1919年 5月21日 に ウィグモア・ホール で初演を迎えている。 マンチェスター・ガーディアン 紙は次のように評した。「この四重奏曲は途方もないクライマックス、舞踏のリズムの興味深い洗練、完璧な対称性を備えており、五重奏曲はより抒情的かつ情熱的で、両曲ともそうした形式による偉大なオラトリオにも引けを取ることのない理想的な室内楽曲の見本である [83] 。」.

対して、残る1曲である チェロ協奏曲 ホ短調 の初演は1919年10月にロンドン交響楽団の1919年-1920年シーズンの開幕コンサートを飾ったが、惨憺たる結果に終わった。演奏会においてエルガー作品のみ作曲者自身が指揮棒を握り、それ以外の楽曲は アルバート・コーツ が指揮を行った。彼はリハーサルの時間を超過してエルガーの持ち時間を使い込んだ。エルガー夫人はこう記している。「あの冷酷で自己中心的なマナーの悪いがさつ者(中略)あの冷酷なコーツがリハーサルをし続けていた [84] 。」 オブザーバー 紙の アーネスト・ニューマン ( 英語版 ) は次のように書いた。「不適切なリハーサルの1週間に関する噂が囁かれている。どう説明をしたとしても、かつてあれほどの立派なオーケストラがこうも嘆かわしい姿を見せることなど十中八九なかっただろう、という哀れな現実が残る。(中略)作品自体は愛らしい素材から成り、非常に簡素であるが - その含蓄に富む簡潔さはこの2年にエルガーの音楽に現れてきたものである - その簡素さの下には深遠な知恵と美が隠されている [85] 。」エルガーは初演の ソリスト を務めた フェリックス・サルモンド を責めることはせず、サルモンドは彼のために後日もう一度演奏を行った [86] 。約1年余りで100回の演奏に恵まれた第1交響曲とは対照的に、チェロ協奏曲はその後1年以上にわたってロンドンで再演されることはなかった [87] 。.

妻を失ったエルガーは途方に暮れた [86] 。世間からは新作を期待する声もなく、妻からもたらされていた絶えざる献身と霊感を失った彼は、つい作曲から遠ざかりがちになる。彼の娘による後年の記述によれば、エルガーは父親譲りの性質で「腰を据えて仕事に向かい続け」たがらず、「必要性が皆無で全く無意味な作業をして何時間も楽しげに過ごすことができた」といい、この傾向はアリスの死後ますます顕著になった [92] 。彼は残りの人生の大半をいくつかの道楽に耽って過ごした [1] 。生涯を通じて熱心に化学を趣味としていた彼は、時おり裏庭の実験室を使っていた [93] 。 サッカー ファンでもあった彼の贔屓は ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC で、このチームのために祝歌『 He Banged the Leather for Goal 』を作曲するほどであった [94] 。また晩年には競馬にも足しげく通っていた。エルガーが目をかけていた指揮者の マルコム・サージェント とヴァイオリニストの ユーディ・メニューイン は共に、リハーサルに出席した彼が万事良好としてさっさと納得し、競馬場へと消える姿を思い出している [95] [96] 。また、若い頃には熱心な自転車乗りだったエルガーは1903年に自分と妻のためにロイヤル・サンビーム(Royal Sunbeam)の自転車を購入している(「ミスター・ フォイボス 」と名付けていた) [97] 。老いて独り身となったエルガーは、お抱え運転手の運転による田舎でのドライブを楽しんだ [1] 。 1923年 の11月から12月にかけて ブラジル を訪問した彼は アマゾン や マナウス を巡り、マナウスではオペラ・ハウスの テアトロ・アマゾナス ( 英語版 ) に感銘を受けた。旅行中のエルガーの行動や出来事に関する記録はほとんど残っていないが、それが故に 小説家 の ジェームズ・ハミルトン=パターソン ( 英語版 ) がこの旅行を基にしたフィクション作品『ゲロンティアス』を執筆するにあたって、創作の余地が多分に残されていたことになる [98] 。.

アリスの死後、ハンプステッドの家を引き払ったエルガーはロンドン中心部の セント・ジェームズ ( 英語版 ) の集合住宅に一時身を置いた後、ウスターシャーへと戻って1923年から 1927年 までケンプシー( Kempsey )の村落で暮らした [99] 。この時期には作曲の筆を執ることもあった彼は、 バッハ や ヘンデル の作品の大規模な管弦楽編曲を制作した他、 1924年 の 大英帝国博覧会 ( 英語版 ) に向けて『イギリス帝国行進曲』と『 Pageant of Empire 』を作曲している [100] 。これら作品の出版後まもない1924年 5月13日 、彼は死去した ウォルター・パラット の後任として 国王の音楽師範 に任用された [101] 。.

エルガーの録音はHMVと RCAビクター から78回転のディスクとしてリリースされた。 第二次世界大戦 後、 1932年 に10代のメニューインをソリストに迎えたヴァイオリン協奏曲の録音は78回転及びその後出された LPレコード として入手可能であったが、他の録音はしばらくカタログから姿を消していた。 1970年代 にそれらが EMI から再発売されると、エルガーの死後長い間多くの指揮者が採用してきたゆったりしたテンポとは対照的な、急速なテンポ設定が多くの人々に驚きをもたらした [102] 。これら録音群は 1990年代 に CD として再度刊行されている [103] 。.

エルガーの晩年の作品である組曲『 子供部屋 』は、アビー・ロード・スタジオで最初の演奏が行われ、スタジオ初演された初期の楽曲となった。 ヨーク公爵 の妻子に捧げられたこの楽曲で、エルガーは再び自身の幼少期のスケッチブックを持ち出してきている [2] [注 17] 。. 最晩年になり、エルガーには音楽的再興が訪れていた。1932年にはBBCが75歳の誕生日を祝って彼の作品による音楽祭を催した [106] 。またエルガーは 1933年 には空路パリへ渡り、メニューインを独奏者としてヴァイオリン協奏曲を指揮した。フランス滞在中、彼は作曲家 フレデリック・ディーリアス を グレ=シュル=ロワン の彼の自宅に訪ねている [17] 。時代遅れとなっても彼の音楽を擁護したエイドリアン・ボールト、マルコム・サージェント、 ジョン・バルビローリ といった下の世代の音楽家によって、エルガーは見出されたのであった [107] [108] 。エルガーはオペラ『スペインの貴婦人』に着手するとともに、BBCからの 交響曲第3番 作曲の委嘱を受諾した。しかしながら、作品の完成は彼の最期の病により阻まれることになる。彼は未完作品のその後を気にかけていた。リードには何人たりとも交響曲のスケッチを「下手に弄」って完成させようとしないようにして欲しいと頼む一方 [109] 、別の時には「もし私が第3交響曲を完成させられなかったら、誰かが完成させるだろう - もしくはもっといいものを書くだろう。」と述べている [110] 。エルガーの死後、 パーシー・ヤング がBBC及びエルガーの娘であるキャリスと協力して『スペインの貴婦人』の補筆完成版を制作 [111] 、CDとして刊行された。第3交響曲は草稿を基に作曲家の アンソニー・ペイン が推敲を重ね、 1998年 に完成版の総譜を世に出している [110] 。.

Wulstan's Churchで妻の隣に埋葬された。. エルガーは民俗音楽を軽んじており [113] 、イングランドの初期作曲家にはほとんど興味も敬意も持ち合わせていなかった。 ウィリアム・バード やその同時代の作曲家に関しては「博物館の陳列品」と呼んでいた。その後のイングランドの作曲家の中では ヘンリー・パーセル を最高と考えており、また彼は ヒューバート・パリー の著作から自らの技術の多くを習得したと語っている [114] 。大陸の作曲家のうち、エルガーに最も大きな影響を与えたのは ヘンデル 、 ドヴォルザーク であり、 ブラームス からもいくらか影響を受けた。彼の 半音階 技法には ワーグナー の影響が顕著であるが、エルガーの 管弦楽法 のスタイルは 19世紀 フランス の作曲家、 ベルリオーズ 、 マスネ 、 サン=サーンス そしてとりわけ ドリーブ に多くを依っている。エルガーはドリーブの作品をウスターで指揮し、これを大いに称賛していた [113] [115] 。.

エルガーはまだ幼い頃に作曲を開始し、その後生涯を通じてメロディや着想をこの時期に記したスケッチブックに求めていた。たとえ大規模な作品であっても、でたらめに書き殴った主題の断片から曲を組み立てるという習慣は彼の生涯を通じて変わることはなかった [116] 。彼の青年期の作品にはヴァイオリンとピアノの楽曲、 1878年 から 1881年 の間に兄弟と演奏した管楽五重奏のための楽曲、そしてポウィックの精神科養護施設の楽団のために作曲した様々な形式の楽曲がある。ダイアナ・マクヴェイは『 ニューグローヴ世界音楽大事典 』の中で、こうした作品にエルガーらしい感覚の萌芽を数多く見出しているが、『 愛の挨拶 』と数十年を経て『 子供の魔法の杖 』として編曲された幼少期のスケッチの一部を除くと、初期作品には定期的に演奏される楽曲はほとんどない [2] 。 1889年 から 1891年 のエルガーのロンドン第1期で特筆される唯一の作品、序曲『 フロワサール 』は メンデルスゾーン とワーグナーの影響下にあるロマン的ブラヴーラ風の楽曲で、エルガーらしい性格もより前面に出てきている [2] 。続くウスターシャーでの期間に書かれた管弦楽曲には『 弦楽セレナード 』や『 3つのバイエルン舞曲 』がある。この時期以降、エルガーは 歌曲 や パートソング も作曲するようになる。 ウィリアム・ヘンリー・リード はこれらの作品に対して疑念を表明する一方、男声合唱のためのパートソング『 The Snow 』と5曲から成る コントラルト と管弦楽のための歌曲集で現在も演奏機会のある『 海の絵 』については称賛した [117] 。.

エルガーの初期大規模作品で主要なものは、 スリー・クワイアズ・フェスティバル ( 英語版 ) やその他音楽祭のために書かれた合唱と管弦楽のための楽曲である。『 黒騎士 』、『オラフ王の伝説からの情景』、『 生命の光 』、『聖ジョージの旗』、『カラクタクス』がそうした作品にあたる。ヘレフォード音楽祭のためには『テ・デウム』と『ベネディクトゥス』も書かれている。これらに関して、マクヴェイは贅沢な管弦楽法と斬新な ライトモチーフ の用法に好意的な評を寄せているが、選ばれた詩の質と着想が一定しないことはさほど前向きに評価していない。マクヴェイが指摘するのは、こうした 1890年代 の作品群が長年あまり知られてこなかった(現在でも演奏頻度は少ない)ために、エルガーの最初の大成功作である『 エニグマ変奏曲 』の熟達度が凡人から天才への突然の変容のように映ったが、実のところ、彼の管弦楽技法はこの10年を通じて築き上げられてきたものだったということである [2] 。.

エルガー作品中、最も知られる作品群が作曲されたのは 1899年 から 1920年 までの21年間である。それらの大半は管弦楽作品であった。リードは「エルガーの天分はその管弦楽作品において頂点を極める」と記した上で、 オラトリオ を書く場合ですらオーケストラパートが最も重要であると語った、作曲者自身の言葉を引用している [118] 。『エニグマ変奏曲』によってエルガーはその名を国中に轟かせた。彼にとってこの時期に変奏曲という形式を採用したのは理想的な選択であった。というのも、この頃の彼には広く管弦楽法に長じていながらも、対照的に旋律を短く、時に息詰まるようなフレーズで書く傾向があったからである [2] 。続く管弦楽作品である演奏会用序曲『 コケイン 』(1900年-1901年)、『 威風堂々 』の第1番と第2番(1901年)、そして柔和な『 夢の子供たち 』(1902年)はいずれも小規模な作品であった。最長の『コケイン』でも15分未満の演奏時間である。『 南国にて 』(1903年-1904年)は当初作曲者により演奏会用序曲と銘打たれたものの、 マイケル・ケネディ によれば実質的に 交響詩 となっており、エルガーがそれまでに書いた純管弦楽作品の中では連続して演奏される最長の楽曲となった。この曲が書かれたのは交響曲作曲の試みをいったん中断した後のことだった [119] 。この作品からは息の長い旋律線と管弦楽の歌わせ方に上達を続けるエルガーの姿が窺われるが、ケネディをはじめとする批評家には中間部に関して次のような指摘をする者もいる。「エルガーのインスピレーションの炎は、その最高の輝きを放ってはいない [120] 。」 1905年 には『 序奏とアレグロ 』が完成された。この作品は多くの主題を用いてきたそれまでのエルガーの作品とは異なり、主題を3つだけに絞っている。ケネディはこれを「イングランドにおける弦楽合奏のための作品の中では、唯一 ヴォーン・ウィリアムズ の『 トマス・タリスの主題による幻想曲 』のみが右に並び得る偉大な楽曲」であると評した [121] 。にもかかわらず、15分に満たないこの楽曲は当時の基準では長大な作品とはならなかった。同時期に作曲された グスタフ・マーラー の 交響曲第7番 は演奏時間が1時間を超える作品である [注 18] 。.

しかしながら、次の4年の間にエルガーが作曲した3つの主要な演奏会用楽曲は、大陸で同時代に活躍した一部作曲家の同種作品群に比べれば短いとはいうものの、イングランドの作曲家による同じジャンルの作品としては最も長大な部類に属するものとなる。その作品とはいずれも45分から1時間を要する 交響曲第1番 、 ヴァイオリン協奏曲 、 交響曲第2番 である [注 19] 。マクヴェイは2つの交響曲について次のように述べている。「(2つの交響曲は)エルガー作品の中のみならず、イングランドの音楽の歴史においても高く位置づけられる。両曲とも長大で力強く、曲の生気と雄弁さの源となる内的なドラマの存在を示唆する唯一の鍵、そして引用句である曲のプログラムは公表されていない。両曲は古典的形式に依拠しながらも形式から逸脱しており(中略)そのために批評家からは冗長で締まりがないとみなされることもあった。おびただしい数の新たな試みが盛り込まれていることは疑いなく、各交響曲の進歩の過程を図示しようものなら何十曲もの音楽が間に連なることだろう [2] 。」. エルガーのヴァイオリン協奏曲と チェロ協奏曲 は、ケネディの述べるところでは「彼の最良の作品であるだけにとどまらず、同じ形式の作品中でも最上級もの」である [123] 。しかし、この2曲は大きく趣を異にしている。ヴァイオリン協奏曲はエルガー人気が頂点を極めた 1909年 の作曲で、彼が最も愛する楽器のために書かれており [117] 、全編を通して抒情的でありながら狂乱と絢爛が交互に顔を出す [124] 。10年経ち、 第一次世界大戦 終結直後に作曲されたチェロ協奏曲は、ケネディの言によれば「異なる時代、異なる世界に属するもの(中略)エルガーの全主要作品中でも最も簡素であり(中略)また、最も控え目である [125] 。」2曲の協奏曲の合間に作曲された交響的習作『 フォルスタッフ 』に関しては、エルガーを最大限に称賛する人々の意見すら2つに割れる。 音楽学者 の ドナルド・トーヴィー は「 シェイクスピア と同等の」力を備えた「音楽の中でも計り知れないほど偉大なもののひとつ」としているが [126] 、一方ケネディは作品が「 反復進行 に依存しすぎ」ており、女性の登場人物を理想的に描き過ぎているとして批判した [127] 。また、リードは曲の主要主題にエルガーのそれまでの作品のような特徴が乏しいと考えていた [128] 。エルガー自身は『フォルスタッフ』を自らの純管弦楽作品の中でも頂点に位置する楽曲であるとみなしていた [129] 。.

中期に書かれた作品には、他に ジョージ・ムーア と ウィリアム・バトラー・イェイツ の戯曲への付随音楽『 グラニアとディアミド 』(1901年)、そして アルジャーノン・ブラックウッド の小説に基づく戯曲への付随音楽『 スターライト・エクスプレス 』(1916年)がある。前者に関して、イェイツはエルガーの音楽を「英雄的な陰鬱さが素晴らしい」と評した [133] 。さらにこの絶頂期には数多くの歌曲が作曲されているが、リードはこれらについて「彼がオーケストラのレパートリーを拡充したのと同程度に、声楽のレパートリーを増やしたとは言えない」と考えている [117] 。.

チェロ協奏曲以降、エルガーが大規模作品を完成させることはなかった。バッハ、ヘンデル、 ショパン らの作品に独特の管弦楽法で編曲を施す一方で [2] 、再び幼少期のノートに立ち返り組曲『 子供部屋 』(1931年)を作曲した。この時期に書かれた作品には、他に定期的に演奏されるようになっている楽曲はない [1] 。その後の20世紀の大半を通じて、エルガーの創作衝動は妻の死を境に途絶えてしまったのだと広く考えられてきた。しかし、アンソニー・ペインがエルガーの草稿から 交響曲第3番 を再構成したことが、この認識を改める契機となる。エルガーは第3交響曲の開始部を管弦楽編曲の完成した状態で残しており、その総譜や他のページからは戦前期の豊かだった頃から大きく姿を変えた彼の管弦楽法が垣間見える。『 グラモフォン 』誌はこの新作の冒頭について「身の毛のよだつ(中略)忘れがたく痩せ衰えた」ものと表現した [134] 。ペインはその後『威風堂々第6番』のスケッチから演奏可能な版を作成し、これは 2006年 8月の BBCプロムス で初演された [135] 。1913年に書かれたピアノ協奏曲の草稿は作曲家のロバート・ウォーカーによる再構成を経て、 1997年 8月にピアニストの デイヴィッド・オーウェン・ノリス の演奏で初演された。出来上がった作品はその後大きく改訂されている [136] 。.

エルガーの偉業に対する見方は、彼の音楽が名声を獲得した20世紀の初頭以来の数十年で変遷を遂げてきた。前述の通り、 リヒャルト・シュトラウス はエルガーを革新的作曲家であると認めていた。1908年の第1交響曲の主題に感銘を受けなかった敵対的な『 オブザーバー 』紙の評論家ですら、管弦楽法に関しては「見事に現代的」であるとしている [137] 。 ハンス・リヒター はエルガーを世界中で「最も偉大な現代作曲家」とみなし、また アルトゥル・ニキシュ も第1交響曲を「ベートーヴェンやブラームスの偉大な交響曲の模範と並び位置づけ」られるべき「第1級の傑作」と考えていた [41] 。対照的に批評家の ウォルター・ジェームズ・ターナー ( 英語版 ) は20世紀中盤にエルガーの「 救世軍 交響曲たち」と書いており [115] 、 ヘルベルト・フォン・カラヤン は『エニグマ変奏曲』を「中古のブラームス」と呼んでいた [138] 。エルガーの絶大な人気は長く続かなかった。第1交響曲とヴァイオリン協奏曲が成功を収めた後、第2交響曲とチェロ協奏曲は好意的に受け止められたが、以前のような激しい熱狂には欠けていた。人々の心には彼の音楽が エドワード朝 と軌を一にするもの捉えられており、第一次世界大戦終了後には彼はもはや先進的、もしくは現代的な作曲家とみなされなかったのである。 1920年代 初頭になると、ロンドンでは第1交響曲でさえ3年のうちわずか1度しか演奏されなかった [1] 。 ヘンリー・ウッド や若い指揮者の ボールト 、 サージェント 、 バルビローリ らはエルガーの音楽を擁護したが、世紀の半ば頃の録音カタログや演奏会のプログラムには彼の作品はあまり目立たなくなっていた [2] [139] 。.

エルガーを称賛する者の間でも、どの作品を傑作とみなすかについては意見が分かれる。『エニグマ変奏曲』は概して傑作の中に含まれる [143] 。『ゲロンティアスの夢』もエルガー愛好家からは高い評価を受けており [144] 、またチェロ協奏曲も同様である [144] 。ヴァイオリン協奏曲を同じく高く位置づける人も多いが、そうしない者もいる。サックヴィル=ウェストはレコード・ガイドのエルガーの傑作リストからこの曲を除外しており [145] 、 ダニエル・グレゴリー・メイソン は The Musical Quarterly に発表した長大な分析論文において、この協奏曲の第1楽章を「一種の歌謡曲(中略)詩歌の場合と同様に音楽の気高いリズムにとって致命的」であるとして批判した [71] 。『フォルスタッフ』に対する見解も分かれる。この曲は一般の聴衆から高い人気を勝ち得たことがなく [146] 、ケネディとリードは曲の欠点を突き止めている [147] 。対照的に、『 ミュージカル・タイムズ 』紙上でヴォーン・ウィリアムズの取りまとめにより 1957年 に行われた、エルガーの生誕100周年記念シンポジウムにおいて、複数の出席者が『フォルスタッフ』を全エルガー作品中の最高傑作とする エリック・ブロム の意見に賛同している [148] 。.

長年にわたる評価の変遷がありながらも、エルガーの主要作品は21世紀に入ると全体として、1950年代に黙殺されていた状況から力強く復活を遂げている。1955年のレコード・ガイドが挙げることができたのは、現在入手可能な第1交響曲の録音1種、第2交響曲はゼロ、ヴァイオリン協奏曲1種、チェロ協奏曲2種、『エニグマ変奏曲』1種、『フォルスタッフ』1種、『ゲロンティアスの夢』はゼロだった。その時以来、全主要作品には複数の録音が行われてきた。1995年以降、例えば第1交響曲の録音は30種を超え、『ゲロンティアスの夢』も12種類以上ある [152] 。演奏会でも同様に、無視されていた時期が終わり、エルガー作品は再び頻繁に取り上げられるようになった。 エルガー協会 のウェブサイト、演奏予定一覧内に、ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリアで組まれているエルガー作品の演奏日程がまとめられている [153] 。.

エルガーはしばしば典型的なイングランドの作曲家であるとみなされるが、主として彼に影響を与えたのはイングランドというよりむしろヨーロッパ大陸であった。自身は音楽面だけに留まらず、社会面でも自らをよそ者だと感じていた。経済的な問題から専門的な音楽教育を受けることができず、独学によって作曲法を修得した彼は、研究者などが主体となる音楽サークルにおいては我流の作曲家だった。 プロテスタント のイギリスでは、 ローマ・カトリック 教徒は疑いの眼差しを向けられる場面もあった。そして、階級意識の強い ヴィクトリア朝 、エドワード朝のイギリスにあっては、彼は名声を確立して以降ですらも自らの卑しい出自には過敏になっていた。.

にもかかわらず、彼が妻として迎えたのはイギリス軍上級士官の娘で、ピアノの教え子だった キャロライン・アリス・ロバーツ だった。婚約に際しアリスのために作曲した『 愛の挨拶 』はのちに広く知られるようになる。彼女はエルガーを音楽的、社会的に奮い立たせたが、彼は40代になるまで地元の合唱音楽祭のために作品を委嘱される程度で、成功に恵まれない苦しい時期を過ごす。そこそこの成功を収めた作品がいくらか出た後、ようやく 1899年 、 ハンス・リヒター の指揮により初演された『エニグマ変奏曲』が大成功を収め、イギリス及び外国で瞬く間に人気を獲得する。さらに 1900年 の オラトリオ 『ゲロンティアスの夢』はローマ・カトリックのテクストに基づいていたため 聖公会 に波紋を広げたが、ドイツ初演が大成功して作曲家 リヒャルト・シュトラウス から賞賛されるなど、エルガーの名声はヨーロッパ中に広まった。イギリスやその他各地で主要レパートリーとなった同曲は、現在でもその地位を保ち続けている。一方、彼が後に書いた宗教的合唱曲は上々の評判を得ながらも、レパートリーとして定着するには至っていない。.

死後、その評判は低迷を続けていたが、作品の新録音が行われたことに助けられて 1960年代 からは大きく再興してきている。近年ではイギリス国外でも再び取り上げられるエルガー作品が現れてきているが、最も彼の音楽を享受しているのは母国イギリスの聴衆である。. エルガーは レコード 録音に初めて真剣に取り組んだ作曲家とされる。 1914年 ( 旧吹込み )以来、エルガーはレコーディング活動にも積極的であった。 1925年 に新しく開発された マイクロフォン による 電気吹込み が導入されると、それまでに比べて遥かに正確な音の再現が可能となる。そこで彼は『ゲロンティアスの夢』の抜粋など自身の作品の主だったものを自ら 指揮 して非常に多く録音しており、演奏家としての活動も注目される。なお1シーズンのみであるが 1911年 に ロンドン交響楽団 の首席指揮者に就いている。.

政治的には 保守主義 の立場であった。『威風堂々』はエルガーの遺志により、 保守党 以外の使用を認められていない。. エルガーは 1904年 に ナイト に叙され、 1911年 には メリット勲章 を受章した。 1920年 にはベルギーの王冠勲章( Order of the Crown )の十字章を授けられている。 1924年 に 国王の音楽師範 に任ぜられると、翌年には ロイヤル・フィルハーモニック協会 からゴールド・メダルを授与された。 1928年 には ロイヤル・ヴィクトリア勲章 の ナイト・コマンダー を贈られた。 1900年 から 1931年 にかけて、エルガーは ケンブリッジ 、 ダラム 、 リーズ 、 オックスフォード 、 イェール 、 アバディーン 、 ウェスタン・ペンシルベニア 、 バーミンガム 、 ロンドン の各大学から名誉学位を授与されている。また、多数の国外のアカデミーのメンバーとなっており、そうしたものには ローマ の サンタ・チェチーリア国立アカデミア 、 フィレンツェ のAccademia del Reale Istituto Musicale、 パリ の 芸術アカデミー 、 フランス学士院 、アメリカ芸術アカデミーが挙げられる。1931年にはウスター、ブロードヒース 准男爵 となった [154] 。1933年にはロイヤル・ヴィクトリア勲章のナイト・グランド・クロスの候補に挙がっている [155] 。ケネディの言によれば、彼は貴族階級に「物怖じすることなく売り込んだ」が徒労に終わった [1] 。.

エルガーが生を受けたロウアー・ブロードヒースの邸宅は現在 エルガー生誕地博物館 となっており、彼の生涯と作品の展示が行われている。博物館の設立にあたっては 1936年 にエルガーの娘であるキャリスが協力しており、彼女は 1970年 に死去した際、遺言によりエルガーの書簡や書類のコレクションの多くを博物館に譲り渡した。また、キャリスはエルガーの手稿譜を音楽大学へと託した。『 黒騎士 』は トリニティ・ラバン音楽舞踏学院 へ、『オラフ王の伝説からの情景』は 王立音楽アカデミー へ、『ミュージック・メイカーズ』はバーミンガム大学へ、チェロ協奏曲は 王立音楽大学 へ、『神の国』は ボドリアン図書館 へ、そしてその他の原稿は 大英図書館 へ贈られた [156] 。エルガー協会は1951年の創設で、エルガーと彼の作品を専門に扱っている。バーミンガム大学の特別収蔵品にはエルガー自筆の書簡が収められている [157] 。.

ウスターのハイ・ストリートには大聖堂を臨むようにエルガー像が建てられており、これはかつて彼の父の店があった場所からわずか数 ヤード の地点に位置している。他にも ローズ・ガラード ( 英語版 ) 制作の彫像が、マルヴァーン( Malvern )のチャーチ・ストリートの頂上から町を見下ろしている。2005年9月には、町に対する彼の音楽的、並びに他分野での貢献を記念し、ジェマ・ピアソン作の3つ目の彫像が ヘレフォード大聖堂 ( 英語版 ) 近くで除幕式を迎えた。これは自転車とたたずむエルガーをイメージしたものである。1999年から2007年初頭までの間、新しい スターリング・ポンド紙幣 の20 ポンド 札にはエルガーの肖像が描かれていた。2007年はエルガー生誕150周年にあたったため、彼の肖像を他へと差し替えることには議論が巻き起こった。2007年からエルガー紙幣は姿を消していき、 2010年 6月30日 に 法定通貨 ではなくなっている [158] 。.

Mills」と名付けられ、1932年8月から「Sir Edward Elgar」へと改称された。その後1938年10月に現役を引退している [161] 。二つ目はやはりGWRの キャッスル級機関車 で、1946年6月に7005番「Lamphey Castle」として建造 [162] 、1957年8月に「Sir Edward Elgar」へと改称して1964年9月に現役を退いた [163] 。三つ目は イギリス国鉄 の 50形ディーゼル機関車 ( Class 50 )であり、1968年3月にD407番として建造されると1970年代中頃に50007番へと変更、1978年4月に「Hercules」となる [164] 。1984年 2月25日 、この機関車は ロンドン の パディントン駅 において、当時は バーミンガム市交響楽団 の首席指揮者だった サイモン・ラトル によって正式に「Sir Edward Elgar」と命名された [165] 。新しいネームプレートが、かつてのGWRを偲ばせる形で特別に掲げられている [159] 。.

エルガーはその生涯と音楽の両面で『ゲロンティアス』などの小説 [98] 、また複数の戯曲から影響を受けた。1993年公開の デイヴィッド・パウナル ( 英語版 ) による舞台作品『エルガーのロンド Elgar's Rondo 』では、死んだ アウグスト・イェーガー が幽霊となりエルガーの音楽的発展に助言を与える様が描かれている [166] 。パウナルは『エルガーの3番 Elgar's Third 』(1994年)と題したラジオ演劇も著している [167] 。ラジオ演劇には他にも アリック・ロウ ( 英語版 ) 作の『ドラベッラ変奏曲 The Dorabella Variation 』(2003年)がある [168] 。 デイヴィッド・ラドキン ( 英語版 ) によるBBCテレビ Play for Today の『 Penda's Fen 』(1974年) [169] は性と思春期、スパイ、スノッブ根性を扱った作品であるが、そこに背景としてエルガーの音楽、主として『ゲロンティアスの夢』が絡められている。あるシーンでは幽霊となったエルガーが現れ、他言しないようにと命じた上で幼少期の主人公に『エニグマ変奏曲』の秘密を囁く。ケイス・アルドリット作の小説『 Elgar on the Journey to Hanley 』(1979年)では、エルガーのドーラ・ペニー(後のパウエル夫人、『エニグマ変奏曲』では「ドラベッラ」として描かれている)に対する思慕が描写され、小説では2人が初めて出会った1890年代中頃からヴァイオリン協奏曲が生まれるまでが扱われ、最後にドーラに対するエルガーの愛情はアリス・ステュアート=ウォートリーに取って代わられる [170] 。.

おそらく、エルガーを描いた作品の中で最もよく知られるのは ケン・ラッセル 監督による1962年のBBCのテレビ用映画『 Elgar 』だろう。これはエルガーがまだ多分に時代遅れ扱いを受けていた時期に制作されている。この1時間程度の映画はエルガーが強硬主義で誇大主義の作曲家であるという見方に異を唱え、彼の性格と音楽の田園的で陰気な側面を喚起している [171] 。. 交響曲第1番 - 交響曲第2番 - 交響曲第3番 (未完). 子供の魔法の杖 - セビリャーナ - フロワッサール - エニグマ変奏曲 - 威風堂々 - コケイン - 南国にて - インドの王冠 - フォルスタッフ - ポローニア - スターライト・エクスプレス - セヴァーン組曲.

弦楽セレナード - 序奏とアレグロ - 弦楽のためのエレジー - ため息. ヴァイオリン協奏曲 - ファゴットのためのロマンス - チェロ協奏曲. ヴァイオリンソナタ - 弦楽四重奏曲 - ピアノ五重奏曲. オルガンソナタ第1番 - 演奏会用アレグロ. 愛の挨拶 - 夜の歌 - 朝の歌 - 気まぐれな女. バイエルンの高地から - 戴冠式頌歌 ( 希望と栄光の国 ) - ミュージック・メイカーズ.

黒騎士 - カラクタクス. 生命の光 - 使徒たち - 神の国 - ゲロンティアスの夢. キャロライン・アリス・エルガー - ジョン・オールデン・カーペンター - アンソニー・ペイン - ウィリアム・ヘンリー・リード - アウグスト・イェーガー - ユリウス・ブーツ - エルガー生誕地博物館 - エルガー協会.

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. エドワード・エルガー Edward Elgar 1900年頃. 弦楽セレナード Op. 弦楽セレナード より第1楽章。演奏: United States Army Band 弦楽アンサンブル. チェロ協奏曲より第4楽章 アレグロ.

演奏:Skidmore College Orchestra. Courtesy of Musopen. 自慢げな自信、情動的な俗悪さ、素材の贅沢さ、無味乾燥な建築と高価ながらも醜悪なあらゆる装飾品に現れる無情な俗物根性。こうした大英帝国末期の特徴はエルガーの大規模作品に忠実に反映されており、今日では理解不能になってしまいそうである。しかし、もし彼の音楽の大げさで、お涙頂戴的で、細々としたとした要素を見過ごせなかったとしても、そうしようとする努力は行われるべきである。エルガーの最高傑作には力強く雄弁で、高遠な悲哀が何ページも素晴らしく綴られているのだから。(中略)エルガーの天分を疑うのであればまず聴くべき作品群を挙げる。彼の傑作、最大の規模を誇りおそらく最も深い共感を伴う作品である『ゲロンティアスの夢』、交響的習作『フォルスタッフ』、弦楽合奏のための『序奏とアレグロ』、『エニグマ変奏曲』、そしてヴァイオリン協奏曲である [139] 。. 作品については エルガーの楽曲一覧 をご覧ください。. Matthews))(散逸、メヌエットのみ知られる。1928年) 組曲『 セヴァーン川 』("Severn Suite")作品87 ( ブラス・バンド 曲 [注 20] ) 『ミーナ [注 21] 』("Mina")(小管弦楽) 弦楽合奏曲 [ 編集 ] 弦楽セレナード ホ短調 作品20 序奏とアレグロ (Introduction and Allegro) 作品47 エレジー(Elegy) 作品58 『 ソスピーリ(ため息) 』("Sospiri") 作品70 (ヴァイオリンとピアノの稿あり) 協奏曲 [ 編集 ] ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品61 ロマンス(Romance) 作品62 (ファゴットと管弦楽のための作品) チェロ協奏曲 ホ短調 作品85 ピアノ協奏曲 作品90(未完成。ロバート・ウォーカーによる補筆完成稿あり) 室内楽曲 [ 編集 ] ロマンス(Romance) 作品1 (ヴァイオリンとピアノ) 『 愛の挨拶 』("Salut d'Amour" ("Liebesgruss")) 作品12 (ヴァイオリンとピアノ [注 22] ) 『気まぐれ女』("La Capricieuse") 作品17 (ヴァイオリンとピアノ) ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 作品82 弦楽四重奏曲 ホ短調 作品83 ピアノ五重奏曲 イ短調 作品84 器楽曲 [ 編集 ] ソナティナ ト長調 (1887年、1930年改訂)(ピアノ曲) オルガン・ソナタ (第1番) ト長調 作品28 演奏会用アレグロ (Concert Allegro) 作品46 [注 23] (ピアノ曲) 声楽曲 [ 編集 ] 『 黒騎士 』("The Black Knight") 作品25 合唱曲『バイエルンの高地より』("From the Bavarian Highlands") 作品27 オラトリオ『 生命の光 』("The Light of Life") 作品29 『オラフ王のサガからの情景』("Scenes from the Saga of KIng Olaf") 作品30 バラッド『聖ジョージの旗』("The Banner of St.

George") 作品33 カンタータ『カラクタクス』("Caractacus") 作品35 連作歌曲集『 海の絵 』("Sea Pictures") 作品37 オラトリオ『 ゲロンティアスの夢 』("The Dream of Gerontius") 作品38 『 戴冠式頌歌 』(Coronation Ode) 作品44 オラトリオ『 使徒たち 』("The Apostles") 作品49 オラトリオ『 神の国 』("The Kingdom") 作品51 『 ミュージック・メイカーズ 』("The Music Makers") 作品69(アルト・合唱・管弦楽のための作品) 『イングランドの精神』("The Spirit of England") 作品80(ソプラノ・テノール・合唱・管弦楽のための作品) 編曲 [ 編集 ] 『国王陛下万歳』 (国歌) 『エルサレム』 (原曲: チャールズ・ヒューバート・パリー).

Oxford University Press. His Music: The Dream of Gerontius? The Elgar Society. The Musical Times , December 1993, pp. Duchen, Jessica. Elgar's 'Dream of Gerontius' ", The Musical Times , 1 February 1902, p. Accessed 1 June 2010. NPR Music.

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The London Gazette 英語. Oxford University Press 2007年12月. BBC Hereford and Worcester. The Musical Times. Aldous, Richard 2001.

楽譜ネット| MP 27 威風堂々 第1番/エルガー(ポップコーラス/混声三部合唱 ピアノ伴奏付き/G3/G→Ab/T:2'30'')

『威風堂々(いふうどうどう)』は、イギリスの音楽家エドワード・エルガー(Sir Edward William Elgar/)作曲による管弦楽のための行進曲集。 英語のタイトルは『Pomp and Circumstance Military Marches』。 全部で6曲から構成され、第1番から第4番は年から年までに作曲され、第5番は晩年の年 mp 27 威風堂々 第1番/エルガー (ポップコーラス/混声三部合唱 ピアノ伴奏付き/g3/g→ab/t:2'30'')  · ザ・プロムス——イギリスロンドンで毎年夏に開催される8週間にも及ぶ世界最大のクラシック音楽コンサートです。このコンサートに足繁く通う人々は「プロマー」と呼ばれ(この言葉は「ぶらりと歩く」という意味の英語のpromenad・・・ 初代準男爵サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(Sir Edward William Elgar, 1st Baronet, OM, GCVO、年 6月2日 - 年 2月23日)は、イングランドの作曲家、指揮者。 もとは音楽教師でありヴァイオリニストでもあった。. エルガーが遺した楽曲の多くは母国イギリスのみならず、世界中の演 ジャンル: クラシック音楽 平原綾香がエルガーの名曲「威風堂々」に日本語の歌詞を付けた曲を同声三部合唱にしました。元気づけられる感動的な曲

こども定期演奏会 第68回 エルガー:「威風堂々」第1番



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