我々について

お 問い合わせ

プライバシーポリシー 問題を報告する


長宗我部 元親 (ちょうそかべ もとちか)は、 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけての 土佐国 の 戦国大名 。 長宗我部氏 第21代 当主 。 位階 は 従五位下 で死後に 正五位 [3] 、昭和3年(1928年)には 正三位 が贈られた。. 長宗我部国親 の長男で、母は 美濃 斎藤氏 の娘。正室は 石谷光政 の娘で 斎藤利三 の異父妹。.

土佐国の 守護 職を兼ねる 細川京兆家 当主で 管領 の 細川晴元 より、京兆家の 通字 である「元」の一字を受けたため、かつて同じく 細川氏 より「元」の字を受けた15代当主・ 長宗我部元親 と同名を名乗ることとなった。.

土佐の 国人 から戦国大名に成長し、 阿波 ・ 讃岐 の 三好氏 、 伊予 の 西園寺氏 ・ 河野氏 らと戦い 四国 に勢力を広げる。しかし、その後に 織田信長 の手が差し迫り、信長の後継となった 豊臣秀吉 に敗れ土佐一国に減知となった。 приведенная ссылка 時、 戸次川の戦い で愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。. 元親は剽悍な 一領具足 を動員して勢力拡大を行う。長浜戦で敗れた 本山茂辰 は元親の攻撃に押される一方となり、永禄3年末の段階で現在の高知市における南西部の一部を除いてほぼ支配下に置いた。永禄4年( 1561年 )3月には本山方の神田・石立を落として茂辰を 朝倉城 と 吉良城 に追い込む。土佐国司で幡多郡 中村城 を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた 一条氏 と共同し、永禄5年( 1562年 )9月16日に朝倉城攻めを行う。このときは茂辰の子で元親の甥に当たる 本山親茂 の奮戦で敗北した。9月18日には鴨部の宮前で両軍が決戦するが決着はつかなかった。だが勢力圏の縮小から茂辰を見限って元親に寝返る家臣が相次ぎ、永禄6年( 1563年 )1月に茂辰は朝倉城を放棄して 本山城 に籠もった。この年、 美濃 斎藤氏 から正室を迎え、長弟の親貞に 吉良氏 を継がせている。また、次弟の 親泰 は国親の生前に 香宗我部氏 を継いでおり、土佐東部の 安芸郡 を支配する 安芸国虎 とも戦った。本山方は5月に頽勢挽回を図って岡豊城を攻撃を企てるも失敗。永禄7年( 1564年 )4月7日には本山を放棄して瓜生野城(高知県長岡郡本山町瓜生野)に籠もって徹底抗戦する。だがこの最中に茂辰が病死 [注釈 5] 。 跡を継いだ親茂も抗戦するも遂に敗れて、永禄11年( 1568年 )冬に降伏した [6] [注釈 6] 。 こうして土佐中部を完全に平定した。.

元親は永禄10年( 1567年 )の 毛利氏の伊予出兵 によって勢力を激減させた 一条兼定 からの自立を目論み、河野氏へ独自に戦勝祝いを送るなど独立性を強めていった。永禄12年( 1569年 )には 八流の戦い で安芸国虎を滅ぼして土佐東部を平定。 元亀 2年( 1571年 )、一条氏の家臣・ 津野氏 を滅ぼして三男の 親忠 を養子として送り込む。 天正 2年( 1574年 )2月には一条家の内紛に介入して一条兼定を追放して兼定の子・内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立てた。こうして元親は土佐国をほぼ制圧した。天正3年( 1575年 )に兼定が伊予南部の諸将を率い再起を図って土佐国に攻め込んできたときは、一時窮地に追い込まれたが、弟の吉良親貞の尽力のもと、 四万十川の戦い でこれを撃破し、土佐国を完全に統一した。.

土佐統一後、中央で統一事業を進めていた 織田信長 と正室の縁戚関係から同盟を結び [注釈 7] 、 ちょうへぷぽらんぶぶ や 阿波国 、 讃岐国 https://marushin.club/soluxojekib1880.php. 阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた 三好氏 が織田信長に敗れて衰退していたが、 十河存保 や 三好康長 ら三好氏の生き残りによる抵抗や、 天正 4年( 1576年 )の吉良親貞の早世などもあって、当初は思うように攻略が進まなかった。しかし天正5年( 1577年 )に 三好長治 が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になる。. 天正6年( ちょへうぷぽらんぶ )2月、元親は阿波 白地城 を攻め、大西覚養を討った。また次男の 親和 を讃岐国の有力豪族・ 香川信景 の養子として送り込んだ。阿波国では三好長治の実弟・十河存保と 三好康俊 が激しく抵抗するが、元親は天正7年( 1579年 )夏に 重清城 を奪って十河軍に大勝した。康俊に対しても岩倉城に追い詰めて実子を人質にとって降伏させた。この年には讃岐国の羽床氏なども元親の前に降伏し、天正8年( 1580年 )までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。.

伊予方面においては、 南予地方 では軍代であった 久武親信 が天正7年(1579年)春に 岡本城 攻めで 土居清良 の前に戦死するなどした。しかし 東予地方 では白地から圧力と誘いをかけて 金子元宅 や 妻鳥友春 ・ 石川勝重 らを味方にして平定。 中予地方 を支配していた伊予守護の 河野氏 は 毛利氏 の援助を得て元親に抵抗したため、元親の伊予平定は長期化することになった。.

天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず [注釈 8] 、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る [注釈 9] 。 ちょうへぽぷらんぶ [11] 。. このため信長と敵対関係になり [注釈 10] 、天正9年( 1581年 )3月には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受けた。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて元親に圧迫を加えた。ただし、十河存保の動向は必ずしも信長に忠実ではなく、三好康長も阿波国内に元親に対抗するための拠点を確立したことを裏付ける史料が無い以上、天正8年の段階で信長と元親の関係が悪化したとする見方を疑問視し、天正9年(1581年)11月に羽柴秀吉が三好氏に追われていた野口長宗を擁して淡路を平定したことで織田勢力と長宗我部勢力が隣接し、その勢力範囲の確定(国分)を巡って対立を始めたのではないかとする説もある [12] 。.

天正10年( 1582年 )5月には、 神戸信孝 を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。このため三好氏旧臣らは元親を見限って康長に寝返り、さらに阿波の一宮城と夷山城を落とされた [注釈 11] 。 元親は斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表している [13] 。四国攻撃軍は6月2日に渡海の予定であったが、その日に 本能寺の変 ちょうへぷぷぽらんぶ 明智光秀 ドライブレコーダー 画素数 最低 [注釈 12] [注釈 13] 。 信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。.

元親は近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、宿敵であった十河存保を8月に 中富川の戦い で破って、阿波の大半を支配下に置いた( 第一次十河城の戦い )。9月には勝端城に籠もった存保を破り、阿波を完全に平定する。10月には存保が逃れた虎丸城や十河城を攻めた。. 天正11年( 1583年 )の 賤ヶ岳の戦い では、 нажмите для продолжения と手を結んで羽柴秀吉( 豊臣秀吉 )と対抗する [注釈 14] 。 これに対して秀吉は家臣の 仙石秀久 を淡路洲本に入れて備えた [16] 。 また元親に追われた十河存保は秀吉に援軍を求め [17] 、秀吉は秀久に屋島城・高松城など讃岐の長宗我部方の城を攻めさせるも敗退。さらに 小西行長 の水軍に香西浦を攻めさせるもこれも敗退した。しかし4月に勝家は秀吉に敗れて滅んだ。このため5月に秀吉は元親を討つべく軍勢を準備していた [注釈 15] 。.

天正12年( 1584年 )の 小牧・長久手の戦い でも、 織田信雄 や 徳川家康 らと結んで秀吉に対抗し [注釈 16] 、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を破った( 引田の戦い 、 第二次十河城の戦い )。また新居郡の金子元宅と同盟し、南予の 西園寺公広 の諸城を落とすなど、伊予国においても勢力を拡大した [注釈 17] 。 6月11日には十河城を落として讃岐を平定する。しかし小牧の戦いは秀吉と信雄が和睦するという形で終結した。. 伊予国の平定は予想以上に手間取った。天正12年3月、毛利氏は 宍戸元孝 を河野氏救援のために派遣し、恵良で長宗我部軍と衝突する。4月には高山で、5月から6月にかけては恵良・菊間(菊万)で合戦を行っている [21] 。 元親は東予の 金子元宅 との同盟をさらに強固にして9月から反攻に転じた。しかし渡海して遠征していた毛利軍は次第に劣勢になり [注釈 18] 、12月には遂に河野氏は元親に降伏した。その後、天正13年(1585年)春までに西予の豪族なども降伏させた。.

通説によると天正13年( 1585年 )には四国全土をほぼ統一することに成功したとされているが [23] 、統一されていないと主張する研究者も複数おり、見解は分かれている。. 天正13年(1585年)春、秀吉が 紀州征伐 に出てこれを平定すると [注釈 19] 、秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出した。元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが [24] [注釈 20] 、秀吉は許さず弟・ 羽柴秀長 ちょへうぷぽらんぶ [注釈 21] 、元親は阿波 白地城 を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦する [注釈 22] 。.

秀吉は 宇喜多秀家 ・ 黒田孝高 らを讃岐へ、 小早川隆景 ・ 吉川元長 率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・ 秀次 の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣・ 谷忠澄 の言を容れて [注釈 23] 、7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された [注釈 24] ( 四国国分 )。 元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った [注釈 25] 。 これを機に 蜂須賀正勝 ・ 家政 が長宗我部氏の 取次 になったとされるが [30] 、取次としての実態が不明なために疑問視する研究者もいる ссылка на страницу 。また 増田長盛 を取次とする説もある [32] 。.

天正14年( 1586年 )、秀吉の 九州征伐 に嫡男の 信親 とともに従軍し、 島津氏 の圧迫に苦しむ 大友氏 ちょうへぷぽらぶ 戸次川の戦い で四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死した [注釈 26] 。 元親は信親の死を知って自害しようとしたが家臣の諌めで伊予国の 日振島 に落ち延びた。.

天正16年( 1588年 )、本拠地を 大高坂城 へ移転する [注釈 27] 。 その後に起こった家督継承問題では、次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の 盛親 に家督を譲ることを決定する [注釈 28] 。 その際、反対派の家臣であり 一門 でもある 比江山親興 ・ 吉良親実 などを相次いで切腹させている。 [注釈 29]. 天正17年( 1589年 )ころに、羽柴の名字を与えられている [38] 。. 天正18年( 1590年 )の 小田原征伐 では 長宗我部水軍 を率いて参加し、 後北条氏 の 下田城 を攻め、さらに 小田原城 包囲に参加した。. 天正19年( 1591年 )1月、浦戸湾に迷い込んだ体長9 尋 の 鯨 を数十隻の船団と100人余の人夫でもって 大坂城 内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。年末頃には本拠を 浦戸城 ちょうへへぷぽらんぶ 現 高知城 を元親が嫌ったからとされているが、近年では浦戸城は朝鮮出兵に備えた軍事拠点として築かれたもので [39] [40] 、将来的には大高坂城跡を居城として整備する案もあったと指摘もされている [41] 。 また朝鮮出兵がなくとも行政機構整備は行われたとする指摘もある [42] 。.

文禄 元年( 1592年 )から朝鮮出兵( 文禄・慶長の役 )にも従軍する。豊臣政権は諸大名の石高に応じて軍役人数を課したが [43] 、長宗我部の軍役は3,000人で固定され [44] 、水軍としての軍事力を期待されていた [45] 。 慶長 元年( 1596年 )には サン=フェリペ号事件 に対処し、秀吉による キリスト教 迫害の引き金を作った。領内では 検地 を行い、慶長2年( 1597年 )3月に盛親と共に 分国法 である『 長宗我部元親百箇条 』を制定する。.

慶長3年( 1598年 )8月18日に秀吉が死去すると政情が不安定になる。元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、11月26日に徳川家康の訪問を受けた [注釈 30] 。その後、年末か年明けに土佐に帰国した。. 慶長4年(1599年)3月、三男の津野親忠を幽閉している [47] 。その直後から体調を崩しだした。4月、病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在。4月23日には 豊臣秀頼 に謁見している。だが5月に入って重病となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は5月10日に盛親に遺言を残して [48] 、5月19日に死去 [49] 。 享年 можно やさしい心 何でも大切にする子 つよい身体 よく遊び よく食べ よく寝る子 ゆたかな創造性 自分を動作や言葉で表現する правы [49] 。高知県高知市長浜天甫山にあった 天甫寺 廃寺 に葬られる [49] 。法号は雪蹊恕三禅定門 [49] 。.

昭和3年( 1928年 )11月10日、贈 正三位 。. 幼少の頃は、長身だが色白で大人しく人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「 姫若子 」(ひめわこ)と揶揄されており、父の国親は跡継ぎとして悩んでいた [50] 。. 初陣の 長浜の戦い の際、家臣の 秦泉寺豊後 に 槍 の使い方と大将の行動を聞いたという逸話がある [51] 。 秦泉寺豊後は「槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの」と答えた。そしていざ戦になると元親はその通りに行動し、敵兵を見事に突き崩し(『 元親記 』)、「 鬼若子 」と賞賛された [注釈 31] 。. 一条氏の臣従時代に 寺社奉行 であった関係からか、熱心に寺社復興を行っており、四国統一戦の最中にも讃岐国の寺院を復興させるなど、手厚く僧侶を保護しており、谷忠澄や 非有 など神官・僧侶出身の者が家臣に抜擢される例も多かった。特に非有は元親の信頼を得て出頭人として領国支配に広範な権限を行使した [52] 。.

土佐一国を統一する大名に成長し、 土佐の出来人 と呼ばれた [53] 。. 土佐を統一した後、天正5年( 1577年 )、阿波の 雲辺寺 を訪れ、 住職 の 俊崇坊 に四国統一の夢を語った。住職は「 薬缶 の蓋で 水瓶 の蓋をする様なものである」と元親に説いたが、元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えた [54] 。. 土佐統一を果たした年、37歳の若さで「 雪蹊恕三(雪渓如三) 」と法号を称している。「雪蹊」には徳のある人物には多くの人が自然に帰服してくる、そして「恕三」には広く大きな心で事に処せば、前途に万物が生じるという意味が込められているという [55] 。.

家臣に「四国の覇者をなぜ目指すのか」と質問されると、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と答えたとされる [56] 。『土佐物語』では「我れ諸士に、賞禄を心の儘に行ひ、妻子をも安穏に扶持させんと思ひ、四方に発向して軍慮を廻らし」と元親が述懐したとしている。. 讃岐国の羽床・鷲山で敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈る麦薙戦術を行ったが、全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、一畦おきに刈取らせた [57] 。. 同族の 秦氏 を租に持つ 伊予国 早川城主の秦備前守との親交が深かったとされている。 天正の陣 を終えた秦備前守は土佐国に逃れたとあり、秦備前守の 家系図 には長宗我部宮内小輔秦元親(長曽我部元親)と同姓となる長曽我部宮内小輔秦野備前守元宗との記述が残されてある。. 豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。その時秀吉から 饅頭 をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。それを見た秀吉から「その饅頭をどうするつもりか」と尋ねられると、「 太閤 殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます」と答えた。秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。.

朝鮮出兵の際、 泗川城 で 垣見一直 に対し 鉄砲 狭間 の高さの指導をした [注釈 32] 。. 土佐領内で 禁酒令 を出していたにも関わらず、自分自身が酒を城内へ運び込ませていたことがあった。これを 福留儀重 に厳しく諌められて、以後改心したという [59] 。. 山崎の戦い の後、斎藤利三の娘である福(後の 春日局 )を 岡豊城 でかくまったとされる [60] 。. 後継者として期待していた信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにするなど信親没後の元親は久武親直の讒言があったとしても片意地になり、それまでの度量を失っていた [59] 。 戸次川の戦い で信親が戦死した事を知り、自分も死のうと思ったが家来に諌められている [61] 。その後、秀吉から 大隅国 を加増するとの話があったがこれを固辞している [注釈 33] 。. 阿波 白地城 主の 大西覚養 が 三好氏 に寝返ったときも人質としてあった甥の上野介を殺さずに優遇したり [63] 、 三好康長 の子・ 康俊 が父の誘いを受けて寝返ったときも、人質として岡豊にあった康俊の子を殺さずに丁重に送り返して康長に感謝されたりしている [注釈 35] 。 だが信親没後は性格が一変、先に述べた2人の親族の他に、高岡郡の仁井田5人衆の1人である 志和勘助 が使者として阿波の 蜂須賀家政 と会見したとき、家政は勘助の人物を気に入って召抱えようとしたが、勘助は元親への忠義を理由に断った。ところがこれを漏れ聞いた元親は申し開きも聞かずに寝返ったとして直ちに勘助と一族を討伐するという行動を起こしたりした [64] 。.

寺院の保護に積極的で、『百箇条』の中でも「諸宗其の道々専ら相嗜まるべきこと」とある。ただし僧侶に対する規制は厳しく、生活態度が悪い僧侶に対しては『百箇条』において流罪・死罪にするとしている [67] 。. 元親は儒学に特に関心を寄せていたが、他の文学に関しても大いに奨励し、文化上優れた功績を挙げれば恩賞を与えることを約束していた [68] 。. 戦国期の武家は家名の存続を重視したが、元親は武士が罪科のために処罰されても重罪の場合を除いては家名存続やその後の影響に一切の支障は無いことを保障した。また殺人・口論など家中の統制を乱す者は喧嘩両成敗とし、強盗や山賊・海賊には厳罰を処してそれらを在所の庄屋などが逮捕できない場合は連帯して責任を負わせることにした。賭博は禁止し、犯罪者隠匿の場合も連座で処罰し、国家反逆罪から悪口・流言蜚語にまで刑罰を定めるなど、厳罰主義による秩序の維持に努めた。寺院の特権も廃止し、犯罪者が寺院に逃げ込んだりした場合でも逮捕が可能であるとしている [69] 。.

土佐は豪族が多かったため、城割など城下町建設は不徹底に終わっている。それでも元親は居城を浦戸から大高坂に移して中央集権化に努力している。なお元親は商工者の城下町集約と市場町建設にはかなり積極的に行なっているが、これらも城下の地形や広狭の問題から不徹底に終わった [70] 。. 年貢に関しては二公一民と厳しく、隠田が発覚した場合には『百箇条』において倍の年貢を取り、あるいは斬首にするとしている。また百姓の逃散には厳しい取締りを設けた。このため『清良記』では百姓の逃亡も少なくなかったという [71] 。. 商業・産業政策では御用商人に大幅な特権を与える見返りに戦時の軍費を獲得した。土佐は資源に乏しいため大規模な鉱業・工業は発展できなかったが、職人の育成に積極的に努めて慶長期にはそれまでは他国から売買を求めていた鉄砲を自国で生産できるまでにしている。ただし密造・密輸(鉄砲・馬など)には『百箇条』で死刑にするとしている。土佐は木材が豊富だったことから、かなり細則に及ぶ規律が定められた [72] 。.

税制に関しては前述したように年貢が厳しかったが、それ以外の課税として漁業のときに使うかつら網などにかかるかつら銭、塩浜税、十分一(船舶・積荷の税)などがあった [73] 。. 城下町と支城、生産地を結ぶという目的から、元親は交通路の整備に積極的だった。天正年間に一里塚を築き、信親存命の間は道に損傷があったときなどは直ちに上の判断で往来の者に累が及ばないように配慮していた。だが信親没後は道路の損傷は在地の庄屋と百姓に責任を負わせ、悪路のある場合は罰金を徴収するなどした。国内旅行に関してはかなり自由で、宿泊費もその人の志次第としているものの、本道以外を通行すれば罰金とし、定飛脚などは急用の場合に時間までに着けなかったら死罪にするとしている。他国への往来はかなり厳格だったという [74] 。.

元親は 吉良氏 ・ 津野氏 ・ 香川氏 ・ 香宗我部氏 などに弟や息子を養子入りさせて一門の勢力を拡張し、それらが本家を補佐する体制をとっていたが、実弟の吉良親貞が早世して信親も戦死するなど不幸もあって有力一門が欠けると、一門は官僚的家臣団の一員として取り込まれてしまい結果的に信親没後の内紛を引き起こして主導的役割に立つべきだった一門がリードできなかったという難点がある。関ヶ原では香宗我部親泰までもが既に亡く、一門補佐制が形骸化していた [75] 。. 久武親直は元親から盛親にかけて権勢を振るったが、これは久武が桑名・中内と並ぶ三家老の一だったためである。他に江村・比江山・谷など諸氏も臨時的に家老に列せられることもあった [76] 。.

元親の正室は 美濃 斎藤氏 の娘( 元親夫人 )で、永禄6年( 1563年 )に結婚している。尤も家臣らは遠国の美濃から迎えずとも四国の有力者から迎えるべきと薦めた。元親は「天神地祇にかけて、全く彼の息女が容色の沙汰を聞及びたるにあらず、色は兎もあれ角もあれ、祖父伊予守・父豊後守武名香ばしき士なれば、彼腹に出生の子、父祖にあやかる事あらんと思ふ計なり」 [77] と答えて武勇の血を引く彼女の系譜を重んじたという。この正室は明智光秀の重臣・斎藤利三の異父妹で、正確には石谷氏( ちょうへぷぽんぶ 奉公衆 )の娘ということになる。また、利三の生母は明智光秀の叔母とされていることから、のちにこの関係を通じて光秀、そして信長と関係を持つに至った。夫人に関する史料は乏しいためどのような女性だったかは不明であるが、長男の信親から四男の盛親までの4人の男児、長女の一条内政正室から4女の吉松十右衛門正室までの4男4女までを授かっていることから、夫婦仲は良好だったと思われる。. 側室に阿波の細川氏に嫁いでいた小少将 [注釈 38] がおり、彼女との間に五男の右近大夫、また小宰相という側室との間には1男(六男で末子の康豊)1女が生まれたといわれる [78] 。.

三女の 阿古姫 は 大坂の陣 の際に 伊達政宗 に捕えられたが助命され、二人の息子と共に 仙台藩 に仕えた。息子たちはそれぞれ重臣の家に養子入りし(五十嵐元成・ 柴田朝意 )、仙台において元親の血をつないだ。このため阿古姫母子を頼って仙台へ行った長宗我部ゆかりの人々もおり、香宗我部親泰の子・ 貞親 の養子・重親が仙台藩に召し抱えられたほか、吉松氏女(母は元親の四女)が従兄弟の朝意の継室となっている。.

織田信長は元親をあまり高く評価しておらず、慣用句から、「あれは 鳥無き島の蝙蝠 」と揶揄したと伝えられている 『 土佐物語 』 [79] 。尤も、戦国時代を大きく過ぎた18世紀に成立し、鬼や大蛇なども登場する同書の史実性は低いと考えられており、発言の信憑性の程は定かでない。. 高知県 高知市長浜天甫寺山 南斜面に伝わるが、周囲山林の手入れが行き届いておらず、崩壊の危機に直面している。. 没後400年を記念して平成11年(1999年)に「長宗我部元親初陣の像」が 高知市 長浜の若宮八幡宮に建立された [81] 。台座を含めて約7m、槍の長さ5. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. この項目では、戦国時代の大名について説明しています。南北朝時代の武将については「 長宗我部元親 南北朝時代 」をご覧ください。.

詳細は「 四国攻め 長宗我部による四国統一について 」を参照. 詳細は「 四国攻め 羽柴秀吉の四国攻め(四国の役) 」を参照. 浜田善右衛門 浜田善左衛門 浜田久直 公文重忠 江村親家. 桑名太郎左衛門 桑名吉成 佐竹親直 谷忠澄 中島可之助 中島重房. 久武親信 金子元宅 久武親直 滝本寺非有 吉田孝頼 吉田貞重 中内三安. 吉田重俊 吉田重康 吉田政重 福留親政 福留儀重. 豊永勝元 戸波親武 (長宗我部親武) 横山友隆 大西頼包 福留政親.

オリジナル の2014年6月26日時点におけるアーカイブ。. 典拠管理 ISNI : 0000 0000 2527 4420 LCCN : n85292751 NDL : 00625510 VIAF : 55603756 WorldCat Identities : lccn-n85292751. カテゴリ : 戦国大名 織豊政権の大名 土佐七雄 長宗我部氏 土佐国の人物 1539年生 1599年没. 案内メニュー 個人用ツール ちょううへぷぽらんぶ トーク 投稿記録 アカウント作成 ログイン. 名前空間 ページ ノート.

表示 閲覧 編集 履歴表示. メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード ウィキメディア・コモンズ. ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ. リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 このページを引用 ウィキデータ項目. ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン.

戦国時代 - 安土桃山時代. 天文 8年( 1539年 ). 慶長 4年 5月19日 ( 1599年 7月11日 ). 通称 :土佐侍従 渾名:姫若子、鬼若子、土佐の出来人、鳥なき島の蝙蝠. 天甫寺山 ( 高知県 高知市 ) [注釈 1]. 従五位下 、 宮内少輔 [注釈 2] 、 土佐守 、 侍従 、贈 正五位 、贈 正三位. 秦姓 長宗我部氏. 父: 長宗我部国親 母: 斎藤氏 の娘(祥鳳玄陽). 元親 、 親貞 、 親泰 、 親益 、本山夫人( 本山茂辰 室)、女( 池頼和 室)、養甫尼( 波川清宗 室). 正室: 元親夫人 ( 石谷頼辰 ・ 斎藤利三 の異父妹) 側室: 小少将 [注釈 3] 、小宰相. 信親 、 香川親和 、 津野親忠 、 盛親 、 右近大夫 、 康豊 、女( 一条内政 室)、女( 吉良親実 室)、 阿古姫 ( 佐竹親直 室)、女( 吉松十右衛門 室). ウィキメディア・コモンズには、 長宗我部元親 に関連するカテゴリがあります。.

表 話 編 歴 長宗我部氏 第21代当主(1560-1599) 能俊 俊宗 忠俊 重氏 氏幸 満幸 兼光 重俊 重高 重宗 信能 兼能 兼綱 能重 это 永井 将 大 конечно 文兼 元門 雄親 兼序 国親 元親 盛親 親典 與助 弥左衛門 久蔵 惣亟 弥右衛門 弥四郎 歡次 與助 與右衛門 重親 吉親 親衛 林馬 友猪 友親 ( 現・当主 ).

ISNI : 0000 ちょうへぽらんぶ 2527 4420 LCCN : n85292751 NDL : 00625510 VIAF : 55603756 WorldCat Identities : lccn-n85292751.

よく見られるチョウ - 庭のチョウ

病巣部である 眼窩 や 鼻腔 、 副鼻腔 などは薄い骨を隔てて 脳 と接しているため、衰弱した場合や、高齢者など細菌に抵抗力が弱くなってる場合は 髄膜炎 や 脳炎 などを併発し死に致る可能性も低くない病 庭でよく見られるチョウ このページでは、もっともよく観察できるチョウを紹介します。 日本には、約種類のチョウが生息していますが、庭で観察できるチョウは平均で20種類程度です。 張 飛(ちょう ひ、拼音: Zhāng Fēi ヂャン フェイ、年代後半 - 章武元年(年)6月)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍、政治家。字は益徳。幽州涿郡(現在の河北省涿州市)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯、のち西郷侯。諡は桓侯。子は張苞・張紹・敬哀皇后張氏・張皇后。孫は張遵。 後漢末の群雄の1人である劉備の挙兵に当初 長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位 、昭和3年(年)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃 斎藤氏の娘。

ちょうへぷぽらんぶ

Read More

平均ユーザー評価

4.9 / 5