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戦時中、鎌倉市にあった極秘施設「大船収容所」ってどんなところ?


鎌倉と戦争のページ        更新日 2015年7月11日. 私たち年金者組合鎌倉支部では、年金受給者で作っている会です。私たちが体験してきた戦争と戦後の時代を振り返りながら、若い人たちと一緒に平和を考えていきたいと考え、組合員の皆さんから広く戦争と戦後の体験をつのり、2011年に小冊子『鎌倉と戦争・生きてきたを伝える』を刊行しました。 ……………………………………………………  そのとき、私たちの住んでいる鎌倉にも、戦争の爪痕が残されていることを知りました。同時にこの爪痕は、急速に失われつつあることもわかりました。今、鎌倉の戦争の爪痕を訪ね、記憶に残し、次の世代の人にたたえていくことが必要であると痛感しています。  そこで、2012年から毎年1回、「フィールドワーク・鎌倉の戦跡をめぐる」を実施することにしました。第4回目となる今年は、8月23日に、深沢地区を訪ねる予定です。  わたしたちは、フィールドワークをこれからも続けていきたいと考えています。鎌倉にはまだ知られていない、防空壕跡や陣地跡があるかも知れません。お心当たりの方は、会までご一報下さい。また、訪ねてみたい地域がありましたら、ご希望をお寄せ下さい。お待ちしています。.

第4回 鎌倉市内・戦跡巡り フィールドワーク 深沢地区  のご案内. 山門を入ってまもなく右手に見える石碑は、龍宝寺先代住職団野弘之氏の実弟で、昭和19年10月29日にフィリピン沖で神風特別攻撃隊至誠隊長として戦死された団野功雄海軍中尉を顕彰する石碑です。団野中尉は24歳でした。  そして、境内の片隅に人知れず小さな卒塔婆がたっています。それは大船捕虜収容所で亡くなったアメリカ兵を供養するためのものでした。亡くなったアメリカ兵は収容所の一角に墓が作られ、戦後、遺骨は母国に帰りましたが、龍宝寺ではその供養を続けています。太平洋戦争の犠牲となった日米の若者が、隣り合って祀られているわけです。.

このあと、関谷インターに残る銃眼跡と、横須賀と厚木海軍飛行場を結ぶために作られた「海軍道路」を訪ねました。  このフィールドワークは、ケーブルテレビ鎌倉の取材があり、翌日の8月6日、7時からのニュースで紹介されました。. 東京・足立区の旭尋常高等小学校にも「奉安殿」(今回、旧玉縄小学校の旧奉安殿を見ることができました)があり、朝礼の時には必ず全員で頭を下げさせられ、意味も分からない教育勅語を暗記させられました。  女学校では勉強らしい勉強はわずか一年で、畑作業やゲートルをまいて敬礼の練習をさせられました。王子兵器(王子製紙工場が兵器工場になっていた)で鉄砲の弾づくりに動員されましたが、女の子の造る弾ですから、8割が不良品だったそうです。.

今回は参加者が多かっただけでなく、若い人たち、お子さんたちもおじいさんといっしょに参加されたということが特色でした。「昭和一ケタ」の皆さんもお元気で参加されました。このような機会に、戦争の記憶を身近なところから掘り起こし、伝えていくことがこれからますます求められるでしょう。  私たち、年金者組合鎌倉支部も「戦争を許さない世の中」を守るために、地道にこの活動を続けていきたいと考えています。鎌倉市内のまだ知られていない戦争遺跡をご存じの方、またはこの会に対するご意見などをぜひお知らせ下さい。.

神戸治男さんは地元の山崎に生まれ、子供のころまだほとんどが田んぼや森だったこの地域で遊んでいたそうです。  その後、鎌倉市の中学校社会科教諭となり、岩瀬中学で中3生に「鎌倉の戦争遺跡」をとりあげ、詳しく調べたそうです。  今回は講師を務めていただき、思い出も含め、興味深いお話を多数聞かせていただきました。.

湘南モノレール・富士見町駅から江ノ島方面にむかって左側、旧湘南鎌倉病院から奥に入った一帯は、旧富士飛行機の工場があったところです。1937(昭和12)年に低い山を切り崩し、水田を埋めて平地を広げて工場にしました。富士飛行機は中島飛行機の関連会社で、主として練習機(九三式中級練習機、通称赤トンボ)を組み立て、後には特攻機「桜花」「秋水」の一部も作っていたらしい。  戦後、富士飛行機は平和産業に転換したがまもなく倒産し、自動車部品メーカーの東京スリーブなどが1949年に工場を引き継ぎました。飛行機工場の建物は現在も東京スリーブが使用しています。上の写真はその玄関で、昭和10年代の建築がほとんどそのまま使われており、戦争中の飛行機油と学徒動員の工員たちの汗がしみこんでいます。.

旧富士飛行機工場の屋上から東の方角に見える小高い丘にはかつて高射砲陣地が置かれていました。工場に勤務していた方のお話では、一機堕とすと一週間の休暇がもらえたといいます。  この付近の深沢には海軍工廠深沢分工場もあり、富士飛行場も含めた大船一帯はアメリカ軍の爆撃対象であったと思われ、アメリカ軍の航空写真も残されています。戦争が長引いていたら、鎌倉も爆撃を受けたであろうことが充分考えられます。. 富士飛行機工場で働いていた人の談話記録によると、昭和16年頃の工場には2000人ぐらい働いており、宮城や福島からの徴用工の他に、北鎌倉女学院や鎌倉学園の学生も動員学徒として働いていた。多くの少年工のために、青年学校が建てられ、その周囲に「忠」「孝」「義」という名の三つの寮があった。  ちょうど写真のあたりが青年学校の食堂があったところ。現在はまったくその面影はなく、地域スポーツ施設こもれびの前の公園として整備されています。この前にあった旧大船病院は、飛行機工場に付設された病院でした。青年学校や寮の跡地は戦後、国鉄の社宅になり、案内役の神戸さんは国鉄寮で生まれたそうです。<以上、「鎌倉・太平洋戦争の痕跡」鎌倉市中央図書館近代史資料収集室・CPCの会編を参考にしました。>.

現在の山崎小学校のある一帯は、陶芸家・書家・美食家として知られる北大路魯山人が、大正14年から昭和34年まで暮らしていた家と広大な敷地だったところだそうです。山崎小学校のグランドに隣接した一角が母屋の春風萬里荘があったそうですが、現在は宅地になっており面影はありません。  また小学校の正門付近はかつて彫刻家イサム・ノグチと山口淑子がすむ家があったそうです。  現在の山崎小学校は1970年、魯山人の敷地の一部と廻りの田畑を平地にして建てたそうで、付近にある小袋谷方面に抜ける切り通しが、かすかに昔の名残りを感じさせます。.

続いて横須賀線をはさんで浄智寺境内へ。山門を入って右手にある駐車場に面した山の斜面に横穴がある。これらの横穴陣地は横須賀線沿いに進攻する敵に備えたものか。  かつては入口まで階段があり整備されていたが、現在では草が生い茂り、入口も塞がれている。穴は途中までしかなく、終戦で工事が中断されたらしい。. 今必要なことは、鎌倉は文化財があったから爆撃から守られた、という呑気な思いこみではなく、もし戦争が続いていたら、この地も戦場になったであろうこと、「本土決戦」になれば家も横穴陣地も火炎放射器で焼かれたであろうことなどの「もしも」を「想像」してみることことだと思います。  参加された皆さんからは、「広島の日にとても良い企画だった」、「普段見すごしていた身近なところに、こんなに戦争の遺跡があることを知り、びっくりした」、「年金者組合らしい取り組みだ」などの感想を頂きました。年金者組合としては、この活動を今後どのように継続していくか、考えていきたいと思います。参加した皆さん、今回は参加できなかった皆さんも、ぜひご意見・ご感想をお寄せ下さい。.

最新ニュース 年金組合とは 活動のひろば 年金を学ぼう お問い合わせ. 私たち年金者組合鎌倉支部では、年金受給者で作っている会です。私たちが体験してきた戦争と戦後の時代を振り返りながら、若い人たちと一緒に平和を考えていきたいと考え、組合員の皆さんから広く戦争と戦後の体験をつのり、2011年に小冊子『鎌倉と戦争・生きてきたを伝える』を刊行しました。 ……………………………………………………  そのとき、私たちの住んでいる鎌倉にも、戦争の爪痕が残されていることを知りました。同時にこの爪痕は、急速に失われつつあることもわかりました。今、鎌倉の戦争の爪痕を訪ね、記憶に残し、次の世代の人にたたえていくことが必要であると痛感しています。  そこで、2012年から毎年1回、「フィールドワーク・鎌倉の戦跡をめぐる」を実施することにしました。第4回目となる今年は、8月23日に、深沢地区を訪ねる予定です。  わたしたちは、フィールドワークをこれからも続けていきたいと考えています。鎌倉にはまだ知られていない、防空壕跡や陣地跡があるかも知れません。お心当たりの方は、会までご一報下さい。また、訪ねてみたい地域がありましたら、ご希望をお寄せ下さい。お待ちしています。 第4回 鎌倉市内・戦跡巡り フィールドワーク 深沢地区  のご案内.

フィールドワークの足跡 第3回 2014年8月5日 玉縄地区 第2回 2013年8月6日 台・山崎地区 8月7日 東京新聞に掲載されました 第1回 2012年8月6日 北鎌倉・岩瀬地区 冊子 『鎌倉と戦争 生きてきたを伝える』紹介のページ. 仲築間みきさん(右)から 空襲体験のお話を聞く. 花ハイク カメラウォーク マージャン カラオケ プラチナ卓球 郡上おどり 手芸サークル 朗読の会 年金学習会. リンク 全日本年金者組合 鎌倉NPOセンター 鎌倉市 日本年金機構 首都圏年金相談NW.

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鎌倉市の文化史跡・遺跡

鎌倉の衰退. 室町幕府と鎌倉府が対立。年(康正元年)、戦いに敗れた鎌倉府のリーダー足利成氏(あしかがしげうじ)は下総国(茨城県)古河に逃げ、鎌倉は急速に活気をなくし、農業と漁業の村になってしまいました。 戻る 江戸中期から「観光地化」 神奈川県 ~ 第一海軍燃料廠: 横須賀軍港その1: 陸軍田奈弾薬庫: 連合艦隊地下壕

鎌倉 戦争 遺跡

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